バラにのめり込んでいる。
はまっている、なんてレヴェルではない。
時間があけば近くの駒場ばら園に行き、しかも必ず何か買ってきてしまう。
現在大手書店に並んでいるバラ関係の本はすべて読んだ。
とりあえず一つくらい育ててみようかな、とおもっていたのに、気がつけばベランダの鉢が10鉢を超えた。
電車のなかで読むものが小説からバラの本にかわってしまった。
ガールフレンドは、「あなたがバラのことを考えているときは、私と違う世界に生きていて、そこに私のいるスペースはないのよ」なんて、最近流行のロマン派純愛小説などにでてきそうなある意味気の利いたことをいったりもする。
夢にさえ、とくに居眠りには必ずと言って差し支えないほどに、バラのことがでてくる。文字通り、僕はバラにのめり込んでいる。
なぜそこまでのめり込んでしまったのか。それには二つの理由があった。
一つはバラの持つ恍惚とした香りである。
これは僕の経験論であって、そこから何らかの哲学的な論証をしたいというわけではないのだが、香水にせよ、本物のバラの香りにせよ、香りは理解を超えて身体に直接作用する力を持っている、と僕には思える。
これは香り=匂いをほかの感覚的な要素と比較したときにわかることで、例えば文字、それが表す文章、小説などはその世界に入る前提として言語の理解が求められる。
わかっていて初めて浸れるのが文学であるとすれば、わかると言う作業が必ず媒介されるという意味において、文学の経験は間接的なものである。
日本語で小説を読むときに、そもそも日本語を読むことができなければ、理解も何もないだろう、というわけだ。
これに対して、香りは直接僕自身に訴えかけてくる。
もちろん、一言に香りといっても様々に分類されるのは、日常生活でも明らかである。
心地よい香り、不快な香り、気分をすっきりとさせてくれる香りなどなど。
バラの香りについても、ダマスク香(香水などでのいわゆるバラの香り)、フルーツ香、モツヤクに似ているとされるミルラ香、ティー香など、様々に分類されるし、それらを嗅ぎ分けるためにはきわめて分析的な理解が必要とされる。
たしかに、漠然と香りに触れているだけでは、その微妙な違いに気付くことは少ないであろう。
違いに気付くためには、ある程度の知識が必要である。
しかし、僕がいいたいのは、香りの経験それ自体は理解をふまえないということである。
きっかけが香りだっただけに、僕が集めたバラたちはすべて強い香りを持つバラたちで、春のシーズンにはベランダに出ると、僕は香りに包まれることになる。
そんなときに僕を襲う恍惚感は、理解という次元をふまえない次元で僕に襲いかかってくる。
そして、それと同時に僕自身の身体、もっと大きく言ってしまえば、僕自身の存在を強くアピールしてくれる。
ダマスクの甘い香りが僕を包み込んだとき、僕はその香りに恍惚となると同時に、恍惚となっている自分の存在を、感覚的に、身体的経験を通して再認識することができるのだ。
このことが、バラに夢中になる第二の理由に行くわけだが、、、それは次回ということで。
写真はエヴリンです。イングリッシュローズの代表的な芳香品種で、開花シーズンにナーセリーに行って、ひとつひとつ香りをクンクンクンクンと確かめて、やっぱりこれだなーと買ってきた品種でした。まあ、素人が嗅ぎ分けられる香りは一日3種類までだそうですから(香素という粒子が鼻の粘膜に付着して、区別できなくなるそうです)、結局文字情報のつよい影響をうけて買ったことになりますね。生育はきわめて強健で、入手以来病気にかかったことがありません。
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