日記・コラム・つぶやき

2009年2月23日 (月)

久しぶり

3年ぶりの更新。
かといっても特に書くこともなし。

今年は暖冬の影響なのか、
もうバラの芽が吹いてしまっている。
もうちょっとあとになってからのはずだよな、例年は。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月18日 (日)

青春の終わり

自分が流れ行く時間とともに、
確実に年齢を積み重ねていることを感じる。

なにひとつ自分は変わっていないと思っても、
実際には年齢相応に人格も変化しているのだ。

何故そう思えるのかというと、

最近若者の若者らしさをウザッタく感じるようになってしまったからである。

学生を見ていると、
ある意味無垢な、言い換えれば未発達な知能なり人格なりにいらいらさせられることがある。

例えば二十歳くらいの子とつきあう、
なんてことはもうあり得ないのだろう。

もちろん何事にも例外があるわけで、
21歳だけど大人の魅力にあふれている人だって中にはいる。

でも、若者が集まるような居酒屋の雰囲気はもはや僕には鬱陶しい。

そういうことだ。

そうだ。
僕の青春は終わった。

だからといって何がどう変わるというものではない。

しかし、それは少しだけ衝撃的な事実である。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月25日 (木)

近況、影響、勉強。

僕のこの業界生活も大詰めに入り、
今や受け持ちの子供たちのほぼすべてが三年生なので、
この時期はとても忙しい。

表情は引き締まり、
話題は来るべき試験が中心となり、
講師の一言一句すべてを拾い上げるように熱心に耳を傾ける。

僕も仇やおろそかな事は言えない。
語りかける一言一言を注意深く選ぶようになる。




僕の学級の生徒たちには1つの傾向がある。
それは、併願校に、ある大学を受験する子が多い事である。

世田谷区成城にあるその大学は、
世田谷区近辺に住む子がほどんとである彼ら/彼女らには通いやすいだろうし、
いわゆる「4大学」と言われるネームバリューもあるから、
併願校には手頃なのだろう、と僕は勝手に推察していた。

滑り止めの選択理由までいちいち尋ねたりはしない。

ところが、
この間保護者と話す機会があって、
意外な事がわかった。
その大学への出願動機に僕が関与している部分が大きいというのである。

その大学は、僕が現役受験の頃、受験した大学であったのだ。


話は一瞬、さかのぼる。

高校三年の三者面談のとき、
僕は担任に向かって、
大学では芸術学を学びたいこと、
第一志望は確定していてそれ以外は受験しない事を告げた。

担任はうつろな眼をして「そうか」と言ったきり僕の発言を無視し、
ランキング表をぱらぱらとめくって、
「芸術学を勉強したければ、和光大学とS大学があるな。
和光を滑り止めにして、Sをチャレンジにしたまえ」
と言い放ったのだった。

同席した母親もその意見に同意し、
浪人するにしてもどこも受からないで浪人生活を始めるよりは、
1つでも合格を抱えた方が心理的にも良いはずだ、と
僕を説得し、
その大学を受験する事になった。

果たして結果はその通りになった。

合格を知ったとき、
僕は18歳の幼い頭脳で真剣に思った。

「僕は勉強を何1つ知らない。英語の構造だってまるで理解していないし、歴史だってわからない。こんな状態で大学生になっていいのだろうか」と。

当時の僕は、thatが接続詞であるということすら知らなかったし、
絶対王政がいつの時代かも把握できていなかったのだ。

もっと知りたい。勉強をわかってから大学に行きたい。
恥ずかしながらこんなことを真剣に考えた。


こうして、
めだたく予備校生となったのである。




この話を子供たちの前でした事があったのだ。

僕としては、
「勉強することは喜びの経験でもあるんだよ。」ということを言いたくてこの話をしたのだが、
子供たちには事実的側面が印象に残ったらしい。


彼ら/彼女らが出願を前に家族会議を開いたとき、
僕の話を持ち出して、
「だから俺もそこを受ける」
と言っているとかなんとか。
中には
「だから俺も受かってもそこには行かない」
と言っている子も居るとか居ないとか。


自分の発言の影響力の意外な大きさに、
少しばかりうれしくなるとともに、
自分が子供の人生選択に少なからず寄与しているという責任の重さを感じたのだった。

こうなっては、
なんとしてもその大学は合格させてやらないと。

そんなこんなの一月入試直前期でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月25日 (土)

fuck is fuck

今の大学入試は格差社会をもろに反映して、
カップラーメンにお湯を注ぐくらい簡単な問題しか出さない大学がある一方で、
かの女神をわが信仰に取り戻すくらい不可能な、とは言わないまでも結構突っ込んだ問題を出す大学がある、という傾向にあるようだ。

例えば慶應はおそらく教授が趣味的に選んだであろう論文を難易度を無視して出題する。
ソルジェニーツィンの論文を出したり、
バーナードショーの講演録を出したり、
これは教授の趣味だよなあ、とおもってしまうような問題を出題する。

最近は口語志向が強いとよく言われるけど、
その志向もまた、格差を反映した枠組みになっている。

例えば東海大は、
come acrossの同義語を当てさせる問題を出し、
(これは「出くわす」という意味の高校生の単語帳にはどこにも乗っている定番的な知識です。)
それに対して東大は、
’boat is boat, fuck is fuck'(ボートはボート、セックスはセックス)の意味を当てさせる。


もちろんこれは嘘である。

これは僕の個人的に好きな比喩です。
出典は村上春樹なのだが、
いかす女をヨットのクルージングに誘おうとしたリッチマンが、
女の子の「どうぜ私とやりたいんでしょ?」との一言に対して発した映画の中の台詞。
どの映画化は忘れました。


個人的にかなりヒットです。
受験的には’this is this, that is that'という慣用句は勉強します。まあ同じ意味ですが、センスが全く違う。
こういうのが生きた英語なんだよな、という感慨がおこるのはどう考えたって間違っていて、
これは下ねたです。

もちろん当のリッチマンはしっかりとファックを首尾よく成功させる、というのがその映画の落ちらしいです。

fuck is fuck.

いい表現だなあとおもう。

僕だったらfucks are fucksと言いたいところだ。
何おか言わんやは知る人ぞ知ることなり。


ていうか、fuckは可算名詞なのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

アモバン

Dr.コトーを見ていたら、
末期がんの宣告をうけた若い夫婦の話がテーマだった。

愛する女性と別離しなければならない運命にさらされた男は、
どのような反応を示すのか、
という月並みな問いかけに、
もちろん月並みなドラマはセンチメンタルな情景を描いていたけど、
もちろん僕も人並みの恋愛を経験したから、
こういう事態を勝手に仮定してもしそうなったら、について夢想を広がしてきた事がある。

僕の前を通り過ぎていった女の子の中で、
そういう思考を巡らしてしまったのはたったの一人だ。

この子ががんで死んでしまうのなら、
僕だって死にたくなるだろうとか、
子供と母体のどちらかを救おうとすれば他方は死に至る、
という選択を迫られれば、
もちろん僕は彼女を選択するだろう、
などなど。

もちろん僕はこういう状況になったことはないし、
(ほんと言うと一度だけあるけど)
今のところそういう思考を仮定するほど熱烈に愛する女の子に出会ってないから、
あくまで仮定の話になってしまうけど、
僕がそういう場面に出くわしたら、
「死なないでくれ」と124568回言い続けるだろうし、
間違いなく生まれてくるであろう子供より妻をとる。

いいかえれば、僕は「理想的な恋愛」をいつも求め、
「理想的な結婚」を求める理想主義者なのだ。

マルクス主義が破綻を来したように、
理想主義が実現する事ができることなんてありゃしない。

だから、僕はいつもそんなことを夢想し続ける。

僕が本気で愛した女性は、
きっと一生本気で愛し続けるよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月21日 (火)

ダマスクローズ

気がつくと、彼女は僕の目をじっと覗き込んでいた。
僕の存在に何らかの意味を求めているようなまなざしだった。
彼女の中で一体どんな思考が巡っていたのか、結局のところ僕には何一つとしてわからない。
表情から読み取る、という僕の都合のいい解釈でしかわかり得ないものだ。

世界に存在するのは事実である。
事実だけが世界を作り上げ、そして僕を苦しめる。

「どうしたの?」と彼女は言った。
何か?と僕は答えた。何でもないよ。
僕は彼女のまなざしに答えられなかった。
意味をさぐる彼女のまなざしは、
決して意味を放出しないようにしようと決意していた僕を大きく揺さぶった。

どうすればよいのかわからなくなった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 5日 (日)

脳2

君の結婚こそ最も早いだろうと皆が言う。
そう言われつつ僕こそが最も遅いのだろうと皆に言う。

覚醒とまどろみの合間に時折現れるひかりに僕はとまどう。

ひかり

ひかり

ひかり

身体が絞り出したうめき声が、

身体が絞り出したうめき声が、

失われたあのきらめきの記憶を少しばかりまさぐるかのように、
時折またたく

どこにもいない僕は、
どこかにいるかもしれないという絶望をいつだって抱え得ている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月16日 (月)

シリウス。

学生講師諸君に混じってある人の送別会に参加した。

その学生諸君はほぼ全員が東大生で、
しかも理系の子ばかり。
ものすごく独特の空気を醸し出していた。
それはやはり彼らが東大生なのだからだろう。

普通同僚と飲みにいくと、
授業の話(つまり仕事の話)を延々と語る人間(SくんKくん)がいたり、
女の子の話しかしない人間(Tくん=僕)がいたり、
競馬の話に花を咲かせる人間(Oさんとか)がいたり、
えせ文学論を語る人間(Mくん)がいたり、
とまあ具体的な顔を思い浮かべるとこんな感じの人間が集まってわいわいやるものだが、
彼らは少し違う。

物理の理論について花を咲かせる。

酔っても論理的思考力は落ちないようだ。
何を言っているか全くわからなかったが、
彼らが法科大学院適性試験を受けたら何点取るんだろう、
なんてことをぼけーっと考えた。

とは言ってもやはり学生は学生らしく、
倒れる子が2人出現する。
ネゲロしてトイレに運んで、
なんだか微笑ましかった。
今では僕が介抱する側なのだ。
一番楽しんでいたのは室長で、
「のどにゆびいれろー!!!気合い入れろー!!立てー!!」と
なんだかよくわからない体育会系ぶりを発揮していた。

「最後に一言お願いします」と幹事が送別されたHさんにスピーチを促すと、これが百言スピーチに。

スピーチ終了後トイレに行列ができたのにはかなりウケた。

つぶれた2人は、
1人は家が近くだったのでタクシーで送り、
1人は近くに住む子の家に泊めることにして、
その子を家まで運ぶのを僕ともう一人の子が手伝った。

一緒に運んだその子もまた東大生なのだが、
ちょっと小池撤平風のオシャレなかわいらしい感じの男の子。

女の子が放っておかなそうなイケメン。でも彼女はいないらしい。

運んだ僕らもかなり酔っていたので帰りに道に迷う。
そこで彼が一言。
「シリウスがあそこに光っているから方角は間違っていません。」
シリウスっては星のなまえ。
聞けば天文部に所属しているとか。
やっぱり東大生は恐るべし。

シリウスに助けられた僕らは無事駅へと戻る事ができ、
終電はとっくに終わっていたので、
僕はタクシーで帰り、
シリウス君は三次会に向かったのでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月13日 (金)

「これくれるよ。」

あるエライ人と面談をしていたときのこと。

僕の経歴を眺めながら、
「何故先生には訛りがないのですか?」と聞かれた。
僕の出身は東北で、しかもある意味一番方言が抜けにくい地域である。
「ある意味一番抜けにくい」とは、
語彙自体の方言はそれほどない変わりにイントネーションが独特(抑揚がまったくなく語尾に向かって音が上がる)であるため、
そこの出身の人間は上京して何年たってもいつまでも訛りが抜けないということだ。
具体的に言うと、福島県中部地域。

もちろんこれは訛りを除去しようとしている人を対象とした場合の話で、
地方のアイデンティティを全面に押し出して、あえて方言を抜かない人間は除外して考える。

何故ないのか、と聞かれても「ないからないのだ」とトートロジーしか浮かばない。
「東京に憧れていたからです(ほほえみ)」と答えたら、
「いや、まじめな話で」
と興味津々のご様子である。
よくよく伺うと、福島出身で訛りのない人間とあったのは僕が初めてだそうである。
いやいや、訛りのない福島出身だっているよ、
とおもいつつも、
せっかくなので理由を考えてみる。
「耳がいいからだとおもいます」というのが僕の行き着いた答え。

残念ながら絶対音感はないものの、
楽器やっていたからおそらく普通の人よりは耳がいいはず。
イントネーションをコントロールできるから僕には訛りがないんじゃないだろうか、という理屈だ。

その方はそれで納得してくださった。

でもよくよく考えたら、それじゃ音痴の人間は方言自体すら形成されなくなってしまうということになる。
でも、もしかしたら言語修得期の方言の形成過程は音感とはまったく異なった次元において進行するのかもしれない。
そう考えたら上記「音感方言除去説」は説得力を持つかもしれない。
もちろん僕にはそんなことはわからない。

なんでかなー。

ちなみに、イントネーションが消え去っても無意識レベルに定着した方言はやはりあるもので、
自分が東京に住み始めたときに最初に受けたカルチャーショックは、
「くれる」という言葉だった。

福島の人間は、何かを人にあげるとき、
「これくれるよ」と言うのだ。
もちろん東京では
「これあげるよ」である。
「くれる」とは本来もらう側が言うべき表現だから、
他者に視点が移動してしまっている訳で、
考えてみれば不思議な表現だ。

最初にこの言葉を聞いた東京人は、
きょとんとしていた。

と、仕事と全く関係のない話ばかりをした面談だったのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月11日 (水)

涙の進路相談会

授業料の高さで有名な某なんとか塾と掛け持ちをしているリッチな子が生徒の中にいるのだが、
その子から聞いた話だと、
そこでは生徒を集めて進路相談会みたいなものを開催していて、
参加した生徒の中には涙を流す子がちらほらいると言う。
「宗教がかっていた」と
この話をしてくれた子は言っていたが、
そういうその子の表情も少し紅潮していた。

涙を流す進路相談会ってどんなだ?

宗教でも営業でも、
誰かを虜にしてしまう話術のノウハウがあれば教えてほしいものだ。

保護者会で保護者を泣かせてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月14日 (月)

never, never, give up!!!

休日はあっという間にすぎる。
深呼吸をひとつする間に一日がおわるようだ。

机の上に文献をどんと積み上げて、
夏中に読破する!と意気込んでいるが、
これがなかなか。。。

でもやるのです。

また明日も部屋にこもって
きっと読破してみせます。

never, never give up!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月11日 (金)

ふぅ。

やっとなつやすみ。
日程が重なってしまい休みがなかった。

ここまで駆け抜けてきた(はずだ)。

2006年の記憶は何も無い。
正月に帰省して以来、
東京都を一歩も出ていないことに気づいた。
東京都を一歩も出ていないというより、
自分の通勤圏から一歩も出ていない。

吉祥寺、池袋、渋谷その程度。

2006年の改善点は、
禁酒。
正確には節酒。
7日に一回以上は飲まないと決めてここまで過ごした。
別になにもかわらない。
でもとりあえずは続ける。



さて、また駆け抜ける

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月19日 (水)

二足の草蛙

なんだか、頭がとけそうだ。

一日中何かしらの勉強をしている。

法律と英語。

何事もプロは気を抜けないということだ。

英語のプロであり、
法律のプロを目指す。

頭が休まる暇がなし。

まあこの瞬間がそうかもしれない。

二足のわらじはとっても重厚なわらじだ。
熱帯雨林の中を走破できるほどのものなのだろう。

さて!
あしたも!!!!

ピザ食べたい。
のみかいしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月14日 (金)

無題。

終わらない!終わらない!

やるしかない!やるしかない!



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月11日 (火)

memories

No one should spend too much time on memories. Some people start doing that when they're twenty and never get over living in the past. The most interesting people I know don't spend much time remembering the past.

Even when I'm really carried away by my memory and become engrossed in reenacting, in my mind, some pleasurable event from the past, I am almost always brought up by the desperately unhappy thought that the moment is gone forever and no amount of wanting will bring it back. That's more than I can take.

高校二年生用のテキストにあった和訳問題文。
そうかもしれない。
ちょっと共感してしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月10日 (月)

刺激

刺激。
今の僕に足りないもの。
個人プレーばかりだから、外から入ってくる情報が極端に少ない。
一人で過ごしていると気持ちも内向的になって、効率も下がることもしばしばだ。
そんなときに外部からの情報を仕入れると発奮することができる。

世の中には優秀な人間が山ほどいるらしい。
慶応法学部から医学部にいって音楽家になった人がいるらしい。
文学部から国立の医学部にいった人もいる。
商学部を次席で卒業して奨学金で留学した人もいる。
東大から音大に行き直して音楽家になった人もいる。

学歴ばかりをあげたのは、それがわかりやすいからなのだが、
僕が聴いたところだけでもこれだけの経歴を持つ人がいる。

停滞しちゃいけない!
と改めて思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 8日 (土)

肉食生活

人間が牛肉をたべるようになった時代と産業革命以降の科学技術の発達が一致するという疫学的データがある、という話をきいて、それなら僕も頭がよくなるように牛肉をたくさん食べようと思い早速たくさん食べたら、おなかをこわした。

ここ数年間、どうも牛肉が苦手になって食べていない。
獣肉自体が嫌いという訳では決して無いが、牛肉独特のにおいがなぜだかこのところ苦手になってしまっていた。
独特のにおいとは、単純に言うとビーフジャーキーのにおいである。
あのにおいを嗅ぐと胃がムカムカしてくる、と自分では思っていた。
それでもずいぶんと久しぶりにあのにおいに接すると、ああやっぱりいいかもと思い出してきたりもした。すきなんだか嫌いなんだかよくわからん。

食べ物のにおいと言えば、最近、ずいぶんと味覚が鈍くなってきたような気がする。
味が濃いものが前よりも好きになってきて、ぼんやりとした、というかいわゆる仄かな旨味を味わえなくなってきた。
これは老化現象というよりは単純にたばこのせいだ。
たばこの量がグンと増えると、それに比例して味覚が麻痺してくる。
考えてみれば、一日3回接しなければならない食べ物に対する感覚が鈍化しているなんて、僕はずいぶんと損をしている。
そんなことを今日考えながら、タバコを買いました。

全く持って、僕は不摂生きわまりない。早起き以外は不摂生の極みだ。
酒、たばこ、コーヒー、辛いもの、その他ちょっとヤバいものみーんな大好きだ。
刺激と快楽に弱いんだな。
不思議と成人病系の危険信号はまだ無いのだが、
ちょっと、いやかなり不安だ。

ここで思い切ってたばこやめよう!
十数年の喫煙生活に終止符を打とう!

来週から。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 6日 (木)

天災

古典落語に、「天災」という噺がある。
けんかっ早い与太者が町の学者に
「誰かに水をかけられても、天から雨が落ちてきたものと同じと思いなさい。そうすれば腹も立たないだろう。」
と諭されるという噺だ。

今日は、電車事故が発生したために、ちょうど帰ろうとしていたときに電車が不通になってしまった。この時間になってもまだ復旧はできていないらしい。電車が車を轢いてしまったそうだ。車には女性が乗っていたらしいから、まだまだ復旧は先なのだろう。

僕は井の頭線にのり、途中で下車しバスに乗って地元の一駅となりの駅で降りてあるいて帰ることができた。
となりの駅から歩くはめになったのは、乗ろうと思っていたバスの路線が亡くなってしまっていて、隣駅の入り口までしかバスが届かなくなってしまったからだ。

まあそういうわけで時間はかかったが、なんとか家に着くことができた。
『天災』の境地にはほど遠く、腹を立てた。
例えば一駅分を乗り過ごしたり、電車に間に合わなくて乗れなかったことがあっても、
それはすべて自分が招いたことだとすれば、これは仕方ないと思える。

でも、やはりそれが自分に帰責されない事由によって引き起こされたとおもうと、無性に腹が立った。
天災の境地はほど遠い。

ただ、一つ感慨に耽ることがあった。
今日乗ろうとおもっていたバス路線が亡くなってしまったということについてである。
その路線は、かつてガールフレンドが住んでいた町と僕が住んでいた町を結ぶ路線だったのだ。

月日の流れを感じた。

今日は「うめぼし」を聴きながらねよう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月25日 (土)

再会・再開

更新をストップしてしばらく経つのに依然としてこのブログを閲覧していただいている方がおられるようで、
アクセス数が結構ある。
3分くらい考えて、今日から『酒と薔薇と陶酔と』を再開することにした。
やはりこちらの方が自分らしさがにじみ出ている。

というわけで、またよろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 9日 (木)

海が見える!

誰にもそんなことは言われないけれども、
一皮むけたかな、と自分で勝手に思っている。

2005年は人生の中でもっともだめだめな一年だった。
すべてがだめで、逃げ出したいといつも思っていた。
「ここではないどこか」へ行きたいなんてことをこのブログにも書いた。
物事を否定的にしかとらえられなく、
自分のこれからのイメージがつかめず、
いつももがいていた。
両立がなかなかできないことがいつも自分には不満で、
「こんなことやりたくないのに」といつも職場で不機嫌だった。
特に地元での仕事がそうで、
くだらないことで言い合いになったり、
「もうこんなとこやめてやる!」なんていつも思っていた。
そういうふうに否定的にとらえていれば、
プライベートでもいつもイライラしてしまう。
勉強だってはかどるはずがない。
否定の恐るべきスパイラルに完全に巻き込まれていた。

年が明けて、ようやくそういう事態から抜け出せ始めたと思う。
両立なんてはなっから思うことをやめた。
淡々とこなそう。
プロという立場であろうとなかろうと、
自分にとっては仕事はアルバイトでしかない。
「やりたい」とか「やりたくない」とか思うことそれ自体をやめよう。
淡々と、やるべきことをきっちりこなそう。

そう思ったら、突然目の前が開けた。
勉強量もぐんとふえた。
教室に向かうことが苦ではなくなった。
不思議なもので、あれほど「やめてやる!」と思っていた教室にむかうことに抵抗がなくなった。

昨夜、初めて自分が弁護士になった夢を見た。
ヴィジョンが明確だからこそ、夢に出るのかもしれないと思うと少しうれしかった。

合格体験記を読むと、
学生じゃない人間はかならず一度つまずいているようだ。
妻に出て行かれたり、誰かにつらく当たり散らしたり。
そういうことを乗り越え、一皮むけて、ステップを上っていけるのだ。
僕もそうだなあ、と実感。
「この坂をのぼれば海がみえる!」そんな気分。

さて、択一試験の出願をしようと調べたら、
今年からオンライン出願が可能になって、
わざわざ法務省まで行く必要がなくなった。
ただ、電子認証が複雑なシステムで、
しかもwindowsしか対応していない。。。
業界標準じゃないものを使っていると、
こういうときに困る。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月30日 (月)

倒れる

週末、
突然高熱にうなされた。
前日まで何事もなく過ごしていたのに、
夜中に寝ている時に突然寒気がしたと思ったら震えが止まらなくなって、
39度を超える熱が一気にでた。

朦朧としながらも病院に行き、検査を受けたら、

案の定インフルエンザだった。

生まれて初めてかかったインフルエンザだった。

脳みそが焼けこげてしまうかと思った。

これで勉強のスケジュールがどのくらい遅れるかな、

どのくらいの脳細胞が死滅して僕の頭は悪くなったのかな、

と遠のく意識でおぼろげに思いつつ、
特効薬タミフルを投与されたら、
次の日には熱が下がった。

まだ病み上がり的な虚弱感が残っているけれど、
とりあえずは復活。

4500円をけちって予防接種を受けなかったことを少し後悔した。

来シーズンは必ず予防接種します。。。

それにしても、

2005年度は一度も病気にならず、

いたって快調に来年度に行けると思っていたのだが、

最後にインフルエンザとは。

結局とんとんかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月21日 (土)

勉強。

ちょっと前の話になるが、
年末の「2005年を振り返る」的な特番をみていたときに、
一つ印象的な言葉があった。

小泉政権の経済政策がもたらした格差の拡大についてのコーナーで、
竹中平蔵経済財政政策担当大臣の記者会見が流れていた。
セット的に、外国人記者クラブだったと思う。

「これからは自由競争がますます激しくなると思われます。
私が思うに、そんな中で個人としてできることは、
まずは『勉強すること』です。」

細部は多少異なるかもしれないが、このような趣旨のこのようなだったと思う。

「勉強すること」。いい台詞だ。
竹中さんらしい台詞といえばそうだが。

生きていくツールとして求められる勉強。

当たり前だが、勉強とは本来そうしたもののはずだ。

「勉強」というと学歴やプライドを満たすだけのものに思われがちだが、
そういう勉強もまた、生きていくためのツールとして求められる勉強の基礎固めになると僕は確信している。

もっとも、
「学歴やプライドを満たす」こと自体にも個人的には賛成だ。

学歴もそうだが、その環境に身を置くことによって得たものは経験的に言って計り知れないからだ。

「勉強ばかりできてもしょうがない」という意見をよく耳にする。
特に保護者から多い意見だ。
耳にするたびに間違ってるなあ、と思う。
勉強ができることはそれ自体なにものにも代え難い価値を持つものだ。

だいたい、上のような台詞を言うのは、勉強すらできない人間が大半だから、
まあこれは一つの怨念感情なのだろう。

さて、
僕もまた個人としてできる第一の努力をしようと思う。
すなわち勉強すること。

ここで言うところの「勉強」とは、
バラの名前や系統ではなく、
肥料に含まれる主要成分は何かではなく、
カウンタックのスペックではなく、
キャブエンジンがいかにすばらしいことかではなく、
奥田民生のコード進行がいかに洗練されていることかではなく、
法律の勉強であることは言うまでもない。

竹中さんといえば、
ライブドア問題で最近連鎖的に批判が出てくるようになった。

戦後直後の現憲法が制定された当初、
「集団暴徒化論」という学説が裁判所でさかんに取り入れられていた。
「民衆は集合すると暴徒と化す可能性が高いから、デモ行進はなるべく不許可にすべし」というものだ。
「大衆に理性はない」というところか。

最近のメディアをみていると、
そんなことが結びついてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雪という魔術師

今日はみんな雪の話題になるだろうが、
もちろん僕も雪の話題を。

雪国(といっても豪雪地帯ではないけど)育ちであることが僕の根源にあるようで、雪が降ると無条件にうれしさがこみ上げてくる。
特に必要性もないのに、図書館に行ってみたり、間に合っているのにスーパーに買い物に出かけたり、意味もなく自転車でスノーアタックをやってきた。

自分の田舎がそこに住んでいたときから嫌いで、言葉も文化もすべて否定して生きているくせに、雪が降ったときだけは東北のアイデンティティが全面に出てくる。
ノーマルタイヤでそろそろと走る自動車をみると、「これだから東京の人は・・・」なんてことを感じて、雪道をすたすた歩くことができる自分に密かな優越感を感じる自分がいる。

「育ちは隠せない」と言ったところか。

僕は本当に生まれてからずっと雪が好きだ。
実家があった場所が、雪が生活を圧迫するような地域ではなかったことが原因かもしれない。
ちょっとした事情で、家がある場所と学校がある場所が離れていて、学校がある場所が雪の多いところだったのだ。

もちろんそれだけじゃない。
なぜ雪がこんなに好きなのかにははっきりとした理由がある。

雪がふると世界が静かになるからだ。

雪には吸音作用があって、雪が降ると生活音が消えてあたりが静まり返る。
その空気がたまらなく好きなのだ。
人間の耳はあたりの環境によって聴覚を調整するから、
あたりが静かになると、聴覚の感度は増す。
うるさい場所で音楽を聴くときと、静かな場所で音楽を聴くときとは、
ヴォリュームに違いがあるだろう。あれと同じだ。

雪が降ると感覚が研ぎすまされた気がするのだ。

周囲が無音になると、人間は自らが発する音を聴くことができるようになるという。
それは心臓の音、呼吸の音、すなわち生命の音だ。
これもまた、自分と向き合う一つの方法である。

学生時代、東京オペラシティにあるICCというメディアミュージアムによく行った。
そこには無音室があって、完全に音が消し去られた世界を体験することができたのだが、今もあるのだろうか。

それにしても、
「自分と向き合う」ことに触れる機会が僕にはどうやら多い。
きっと自意識過剰なのだろう。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

冬の暖かさ

冬の勉強部屋が好きだ。

内向的ではあるけれども、
だからこそ得られるコンパクトな充実感がある。
心理的に自分の手が届く範囲で区切られた、
閉鎖的と言えばそうかもしれないが、
中身のこい空間を演出することができるからだ。
いわゆる「自分だけの空間」というやつだ。

ポイントは、
部屋をぽかぽかに暖めること。
秋頃と同じ服装でいられるくらいの室温を保つのだ。
部屋が暖かければ心も暖かくなる。
田舎によくあるような、
半纏を羽織ってこたつに潜り込むようなことをしては否けない。
いくらなんでもこたつだけでは狭すぎる。
一つの部屋という閉ざされた空間で開放的になることが心地よいのだ。

それでもって、
そういう「僕の空間」にいると、
聴く音楽も少しかわってくる。
ほんのりとした暖かみを感じられるようなたぐいの曲を聴くようになる。
今季はナットキングコールの頻度が高い。
ジャズヴォーカルはいろいろあるけれども、
僕の経験上彼が一番暖かい。

そしてもう一つ。
クラシックギター。
村治佳織のCDを何度となく聴いた。
つややかな演奏スタイルが暖かみをもっていて、
やっぱりこれも冬の定番だ、
なんてことも言えるけれども、
一番の理由は、

村治佳織がものすごーくタイプなのだ。

ああいう気の強そうなまなざしを投げかけられたら、
きっと人生をすべて投入してしまうだろう。

女性崇拝的な耽美主義の僕にまさに合致している人だ。

話の筋がそれてしまったが、
まあそんな厳寒の日々。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月19日 (木)

性の抑圧

乗っていたエレベータが落下する夢をみた。

高いところから落ちてしまう夢をよく見る。
たぶん先週もみた。

フロイト的には性的な夢らしい。

別に性的に抑圧されている訳じゃないと思うけど、
抑圧されているかどうかは無意識レヴェルのことそうだから、
よくわからない。

夢と言えば、
生まれてこのかた、
僕の夢はいつもいつも総天然色フルカラーなのだが、
みんなもそうなのだろうか?

小学校低学年のときに、
「夢をカラーでみる人間は気狂いなんだぞ」
と兵隊上がりのおじいさんの先生に言われて以来、
頭のどこかしらにその疑問があり続けている。

幼少期の体験ってやっぱり深く意識に刻まれるようだ。

みなさんの夢はカラーですか?

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年1月18日 (水)

みかけ。

身だしなみはきちんとしないと、と思う。

昨日のライブの感想も含めて、
改めてそう思った。

少なくとも外見に限定して言えば、
「素」が許されるのはいわゆる「若者」だけに与えられた特権だ。

外見に限定していっているので、
ここでいう「素」とは見かけ上のことであって、
「自然体」のような態度に関してではない。

寝癖をそのままに外出したり、
部屋着のまま買い物に出かけたりすることだ。

なぜだろう。

大人になれば社会的に礼儀が求められるから、
若者は猶予された子供だから、
なんて理由ではないと思う。

もっと根本的な何か、
Onの姿とOffの姿が与える直観的な印象のレベルの問題かもしれない。

メイクをばっちり決めておしゃれした高校生と、
普段着のTシャツとジーンズの高校生を見比べたときの印象と、

僕がスーツをきて、
ひげもきちんとそって、
アイロンをきちっとかけた清潔なシャツをきて町を歩いたときと、
部屋着のスウェットにサンダルを突っかけて寝癖をそのままにしてコンビニに行くときの周りの印象は、
きっとだいぶ違うだろう。

若者がどんな格好をしようともきっとその子は「若者」だが、

僕がだらけた格好をしたらきっと「あやしげなおやじ」にみられてしまう。

石原東京都知事だって、
ラクダ色(キャメル色ではなくて)のカーディガンを羽織って背中丸めて歩いていたら、
きっとただの「おじいさん」だ。

年を取るにつれて、
身だしなみには気をつけないと否けないのだ。
とこんなふうに改めておもった。

これは昨日のライブの感想の一つで、
だいたい僕と同世代かそれ以上の女性たちを見回してみたときに、
ばりっと決めていた女性と、
あからさまに「素」の女性との印象の格差がだいぶ違ったのだ。

一方は「大人の女性」で、
他方は「おばさん」だった。

女性がそうなのだから、
男性だってそうなのだろう。

これから出かけるときはもっときちんとします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月10日 (火)

あなた死んでもいいですか?

正月にテレビで都はるみの半生を紹介した番組があって、
ぼけーっとみていたのだが、
ちょっと気になって図書館でCDを借りてみた。
僕にとっての初演歌だ。

お目当ては「北の宿から」。

一曲しか聞かなくて演歌論もへったくれもないけど、
演歌はすなわち男の願望のエッセンスなんだろう。
「こうあってくれたらいいな」という女性像が、
典型的に描かれていて、
僕たちの文化においてはそれは男尊女卑という虚構になるのだろう。

「北の宿から」の歌詞がまさにそう。

「あなた変わりはないですか 
日毎寒さがつのります
着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます」

・・・ありえん。

世の中のおやじたちはこんなことを理想と思っているのだろうか。

3番にいくともっとすごい。

「あなた死んでもいいですか
胸がしんしん泣いてます
窓に映して寝化粧を
してもこころは晴れません」

ここまでくれば、
もはや作者はパロディを試みているのではないかと思わざるを得ない。
男の願望を理想的に表す限界点をすぎて、
限界を超えた地点から「そんなことあるわけないでしょ」と
冷ややかに自己批判を開始している、そんな気がする。

既存の形式を純化し、超越してしまった歌。

これは演歌の脱構築だ!!!と、
意味もわからず、
寒空の下でiPodを握りしめながら、
にやりとしたのでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

クンタッシ!!!

年末年始帰省をして、雪国に行ってきた。
写真を撮らなかったのが今になって残念だ。
雪が積もっていた。

帰省、Uターンそれぞれピーク時に電車に乗り合わせたので、
コミコミの車内で読むように本屋でマンガを買っていった。
どうも満員の車内では小説を読むモードにならず、
マンガになる。

お目当ても特になかったので、タイトル買いをする。
カウンタック」を選んだ。
これがまた面白い。
一気に全巻入手し(といっても現在4巻までしか出てない)、
一息に読み切った。

プロットは単純で、
平凡なサラリーマンがひょんなことから大富豪から子供のころのあこがれだったカウンタックを格安で変えることになり、
カウンタックに乗ることで生き方が少しずつ変わっていく。。。

いってみれば頭文字Dのスーパーカーヴァージョンというところか。

メカニカルなディテールの細かさ、走りの描写の精密さあたりがイニD並みに細かいからだ。
お決まりのバトルの相手もランチアストラトス、コルベット、ポルシェ933ターボなどスーパーカーばかり。
とっても楽しいマンガだった。

けれども、僕にはもう少し違う角度で訴えるものがあるマンガでもあった。

主人公は「平凡なサラリーマン」になる前は車に夢中のフリーターだった。
父親の死をきっかけに就職を決意し、
当時自分が乗っていたMR-2を売り払い、
数年が経ち、、、、
物語の始めに至るのだが、
その生活がどうもつまらない。
そんなときに自分がカウンタックに憧れた少年時代を思い出させる出来事が起きる。
それをきっかけとして彼はまた車の世界に戻り。。。

つまらなさ、とは一種の自己喪失の状態に陥ったときに感覚なのではないだろうか、
とおもう。

かつては何かに夢中になっていた。
年を重ねて、いつの間にかそこから遠ざかってしまった。

何かに夢中になっていた10代の自分をオリジナリティ(ORIGIN=起源)と呼ぶとすれば、
夢中になった対象が遠ざかっていればそれはオリジナリティ=自分らしさ、個性を失っていることになる。
そういう状態を自己喪失と呼ぶのではないだろうか、と思う。

だとすれば、
起源をたどれば、個性も戻ってくるし、自分の自分らしさを再認識することによって、
自分の生き方と正面から向き合うこともできるかもしれない。

物語では、
カウンタックに乗ることで、
超美人のセレヴな女の子と、「芸術レヴェル」の一流メカニックが登場する。



僕にとってはヴァイオリンがそうだ。

という訳で、
ヴァイオリンの弦一揃えと、ギターの弦一揃えを買って東京に戻ってきました。

ORIGINに忠実な生活をすること。

2006年の僕の豊富です。

ま、美女が現れることはないと思うけどね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年12月30日 (金)

二重否定。

自分はこだわりの強い人間だと思う。
こうでなくてはならない、という思い込みが人一倍強い。

コーヒーはこくのあるタイプの豆を挽いて煎れなければならないし、
リップクリームはメンソレータムじゃなければならない。
スニーカーはニューバランスがいいし、
やっぱりレコードの方がCDよりも好ましい。
「香らぬ薔薇は笑わぬ美人の如し」である。
その他諸々。

そういうこだわりが「モノ」に関してならまあ多趣味であるで
すまされるけれど、
生き方、個性に関して波及するすると厄介になる。

少しばかり年を取るにつれて、
「モノ」に対するこだわりが少しゆったりし、
逆に「人」に対するこだわりがかなり強くなった。

「こういう生き方をしなければならない」という思いが強くなったのだ。

特にこの一年はそうだった。

自分の生き方を貫き通す、と表現すれば確かに聞こえが良いけれども、
その裏側にはその道から外れたものを徹底的に否定的にとらえる、
始終文句を言ってしまうということになってしまうのではないか、
と思う。
「こだわり」は必然的に否定を伴うからだ。
とくに僕の場合においては、
「これがいい!」というよりも
「これはだめだ!」の方が比率が高い。

物事は肯定的に受け止めなくてはならないと
いつも思っていて、そう書いてきたけれど、
実際の僕はそんな境地にはほど遠く、
常に何かを否定している。

自分に対しても他人に対してもだ。
自己否定を繰り返して一人で疲れてしまうことは無数にあるが、
口に出して言わなくても、
他人を否定的にとらえる傾向がどうも僕にはある。
それを口に出してしまえばただの悪口だ。
そして仮に口に出してしまうと、
口に出してしまった自分を否定する。
つまり後悔する。
そして他人を否定的にとらえる時は、
決まって自分を否定しているときである。
否定の絶え間ないスパイラルだ。

それじゃいけない。

これもまた否定。
でもこれは二重否定でありそれはすなわち肯定だ。

否定のスパイラルそのものを否定するしかない。

肯定の境地にはどうもまだ遠いようだ。

今日は自己批判の回でした。

前回品性について書いたけど、
そういう品性に対するあこがれ自体「こだわり」のあらわれだなー
と思いこんなネガティヴなことを書いてみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月28日 (水)

品性。

今週は強硬日程。
年末年始は業界的に忙しい。

何気なくチャンネルをまわしていたら、
NHKで「世界の社食から」という番組をやっていた。
NHKもがんばるね。
ちなみに今日の回はインテルで、
超豪華ランチだった。
フランス料理あり、寿司ありのビュッフェスタイル。
しかもそれぞれ職人が作る。
さすが独占企業は違うね。

授業に皇家ゆかり某名門私立の子たちがゾロゾロときていた。
バイアスかかっているかもしれないけれど、
やっぱ違うね、という印象を受けた。
貴族的品性というのだろうか。
勉強ができるかどうかはさておき、
独特の空気を醸し出していた。
なんだかみんな品があるんだな。

三島由紀夫がどうしてもだぶる。

大事なのはひとりひとりの個性で、
自分がどこに所属しているかではなく、
そもそも自分が何者かがすべてだ、
とはよく聞く台詞だ。

でも他方で、どのような環境に身を置くかで、
ある程度の性格的な共通項を見いだすことができるのではないか、
と経験的には思う。

そして、そのような経験的な感想こそ、おそらくみんなが思っていることに
接近している場合が多いように思う。
少なくとも経験的には「事実」なのである。

自分の息子は平岡公威みたいに、
当該学校から東大だなー。

と思ってみたのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月20日 (火)

天下取り

生まれて初めて手相を見てもらった。
占いのたぐいは全く信頼していないけれど、
手相は中国4000年の統計学だからまあいいかと。

みられる前に何か聞かれて、
それに左右された分析をされてもいやだから、
なるべく黙って前提知識を与えないようにする。

ふんふん、と納得できるところが結構あった。
統計学も馬鹿にならないかもしれない。

僕には「マスカケ線」というのがあるらしい。
「これは天下取りの相というんですよ」といわれた。
天下を取るどころか、今川家に人質に出された状態から抜け出せない僕だが、
まあプラス材料としてとらえよう。

最後にぼそっと、「お酒には気をつけた方がいいですよ」と一言。
これは手相ではなくて、手の色だろう。。。。

ちなみに、一緒にみてもらった相方は、
「正直」と「わがまま」。(「わがまま」の美名が「正直」であると解釈します)

あたってる!!!
の一言につきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月19日 (月)

寒波

DSCN0280

今年はさむい。文句なしにさむい。

テレビで豪雪のニュースを見ると、北口育ちの僕には少し懐かしさがこみ上げてくる。

僕は北国育ちなので、冬といえば雪だった。
もっとも、僕の実家は太平洋側にあるから、
積雪が観測されるのはそれほど多くはなかったけれども、
それでも北国だからさむさは北口標準だったし、
一度雪が降るとしばらくは雪が残って、道路が凍結したりしていた。

それほど昔ではないにせよ、
僕が実家にいた頃は、
乗用車に「寒冷地仕様」があった時代だ。
チョークその他の低温対策が施されたヴァージョンが北国専門仕様として売られていた。
チョークをひねり、電気系統のオンオフを2度ほど繰り返してからじゃないとエンジンが冷えきって始動しなかった。
今でも、実家の古いランドクルーザーはその儀式を経なければ息を吹き返してはくれない。

高校生は凍結路であろうが、自転車を走らせていた。

今年の寒さはそんな、僕が青春時代を送った北国の冬を彷彿とさせるものだ。

そして、僕が本当の雪国にいた頃のことを思い出させてくれる。

プライベートなことだが、
僕は幼少期、親の実家で育てられた。
その家は僕の実家よりも西側、つまり日本海側にあって、
たくさん雪が降る町だった。

その家から小学校までは結構遠くて、
歩いて40分くらいかかったと思う。
なにしろそこは雪国で、
今よりももっと降雪量の多い時代だったから、
学校に行くのも一苦労である。
まず、歩道は歩けない。
積雪がひどくてあるくことができないからだ。
だから子供たちはみんな車道を歩く。
車道は自動車が雪を踏み固めるから、
一足踏み出すごとに滑って転倒しそうになる。
だから、当地の小学生はみんなスパイク付きのスノーブーツを履いていた。
もちろん僕もそうだ。
たしか4WDというなまえの、靴底にスパイクが二つついている靴を買ってもらった記憶がある。

さらに、寒さ対策も万全だった。
みんな、スキーウェアを着用して登校していた。
もちろん上下ともだ。

こんなことは、
東京の小学生には想像もつかないだろうし、今の僕の生活からも想像できない。

だからこそ、懐かしさがひとしおなのかもしれない。

東京でも雪が降ってほしいなあ。

去年も降ったけれど、今年も降るだろうね。
どかどかと降ってくれないかな。

写真はドゥフトヴォルケです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月14日 (水)

歩み

このブログのタイトルバーには、
犬をつれた人が歩くというフラッシュが流れています。
常に前に歩き続ける。でもあの歩みは夕方の散歩に近い内省的な歩み。
そんなイメージが僕にぴったりだとこのデザインを採用したのですが、

実は隠しパターンがあるそうです。

1/150の確率でけっこうたくさんの隠しフラッシュが、
1/500の確率でさらに隠しフラッシュが出てくるそうです。

さて、あなたがこのブログにアクセスした時の僕は犬を連れて歩いているでしょうか、
それとも。。?????

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年12月 4日 (日)

恋と沈黙

友人に、恋をしている人間がいる。

彼は、「言葉は意味がないじゃん」という。

言葉はそれ自体固有に意味を持つものなのか、と原理的に考えればそれは重大な問題になる。
もちろんそういう問題に言及するつもりは毛頭ない。
前置きおしまい。

さて、

恋する男女における沈黙はそれ以外の場面での沈黙とはいくぶん異なる性格を持っているようだ。

女が何かに期待し、男がなにかを決意する。
けれどもなかなか言い出せない。
そんな時の沈黙。

そういう場合の沈黙には実は言葉があふれている。
期待感、もどかしさ、決意という言葉だ。

そして、彼に男が決意を迷い、女が期待感を持っていたのならば、
発話によってそれは完結させなければならない。

期待感はかなわなければならないからだ。

いわば沈黙は結論に向かうための論証だ。
論証あってこそ結論は結論としての妥当性を持てるのだし、
論証のみではなんの主張なされないことになる。

沈黙は言葉なのだ。

なんて考えてみたりする冬の夜。

僕も恋がしたい!!!!!!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年11月30日 (水)

Shall we 無化調 ?

数日前のことだ。
突然口の中がタダレてしまった。
口腔内が腫れ上がり、粘膜には出血しているところもあった。
今日になってはれはひけたが、
それでも粘膜の傷跡はまだ完治していない。

原因はわかっている。
食べ物のせいだ。
それも地元駅前の中華料理チェーンで食べた酢豚。
そして、おそらく過剰な化学調味料に対するアレルギー反応なのだ。

もう絶対にいかない。

僕自身はたばこをすうから、
味の善し悪しを云々できはしないけれども、
化学調味料の味にだけは敏感だ。

味に敏感なだけでなく、
アレルギーまで起こしてしまうのだから少し厄介だ。
もっとも、口のなかがタダレるほどはこれまでになかった。

牛丼チェーンの食べ物はたいていそれがひどい。
アレルギー反応を起こすほどではないけれども、
口のなかに若干しびれを感じることがある。

「ラーメンではない。食べ物だ。」
でわりと有名なお店のラーメンもそう感じさせた。

中華街に行ったときもそうだ。
これまで3回言ったことがあるけれど、
最初に言ったときに入ったお店はひどかった。
やはり舌がしびれた。

今時化学調味料を使わないお店は増えてきたとはいえまれで、
しかもそこそこの値段をださないといけないところが多いから、
「自分で作るのはめんどくさい、かつあまりお金をかけたくない」
ようなときには、ちょっと困る。

食べ物のアレルギーなんて嫌だ。

世間には小麦や卵のアレルギーで苦しむ人が多くいるらしいが、
彼/彼女らの苦しみは筆舌に尽くしがたいのだろう。
これまで特に意識こともなかったけれど、
今となっては共感を覚えてやまない。

何事も経験が大事ですね。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年11月25日 (金)

Blust

どうも最近パソコンの調子が芳しくなく、
突然フリーズしたりスリープ機能が作動しなくなったりしていって、
OSをもう一度入れ直すとよい、という友人の意見を受け入れて
もう一度入れ直したら、
データがすべて消えてしまった!!!!!!!!!!!

誤解していたのだ。
OSのリインストールはOSのみの入れ替えが可能で、
保存したデータはそのままであると。


そうではなかった。。。。
パソコンが完全にリフレッシュされてしまった。

6年分の書類と
6500曲分のデータと
300枚の写真と
6年分の書き留めた雑文が
失われた。。。

PowerBookはおかげで調子を取り戻したけれど、
記憶が完全に失われてしまった。

空白の数年が
本当に空白の数年になってしまった。

そんな気分。

あいつが憎らしい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年11月22日 (火)

んんん、

昨日アロマテラピーを始めたと書いたけど、
別にマッサージをしている訳でもフェイスパックをしている訳でもなくて、
単にアロマバーナーで香りを炊いているだけなのだが、
それでも大分心地がよい一日を過ごすことができる。

本当に香りっていいよ、と改めて思う。

机の上にバーナーをおくと、
いつまでも集中できそう(な気がする)。

昔から香りの嗜好にはすこし偏りがあって、
シトラス系統の香りには一切受け付けない。
シトラスって柑橘類のこと。
香水を選ぶときも、
シトラスノートの製品はまずさける。
ジバンシーのウルトラマリンなんて論外。

なんと言ってもフローラルが一番。
花の香り。
バラ、ジャスミン、スズランはもとより、
イランイランもかなりうっとりする。
そしてウッドもよい。
乳香、白檀、ミルラも捨てがたい。
次にくるのがグリーン。
ローズマリー。
集中力アップの定番ノート。

こういうのは単純に好みの問題だから、
何故シトラスが好きではないのかを論理的に導きだすことはできないし、
やりもしないけれども、
世の中の香水はシトラス系のものが多数派であるという事実は大きいかもしれない。
少数派をめざしたいという、ささやかな差異を追い求める悲しき人間の絶望的な願望デスね。

ここのところ、
頭痛と肩こりが特にひどい。お風呂に入ったりマッサージをしたりする。
ヨガの本を読んでストレッチをする。
それに加えてアロマとなると、
もうこれは最近の風潮にどっぷり浸かっているということになる。
すなわちLOHAS。

くやしいけれど、
ソトコトを立ち読みしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月21日 (月)

automatic

また久しぶりの更新になってしまった。

いつのまにか、本当にいつのまにかすっかり冬になっている。
日々の季節の変化を感じることはなかった気がする。
気がついたら寒くてヒーターを入れていた、そんなところだ。
一日があっという間に過ぎ、あっという間に一週間がたち、
あっという間に一ヶ月が経った。
気がついたら冬になっていた。

大学受験を彷彿とさせるような生活を送っている。
目が覚める。
軽い食事をとって机に向かう。
時間になると授業に向かう。
かえってすこし酒を飲む。
寝る。
おしまい。
それだけ。

何かに没入しているときって、
なんらかの奇行をしてしまうことがある。
今がまさにそうなのだが、
それはまた今度に。

バラも冬に向けて準備を始めている。
葉が色づいたものもある。
葉を落としたものもある。
まだつぼみを付けているものもある。
つぼみをつけているのに葉が色づいているものもある。
まさに多様性。
そろそろ植え替えないと。

最近の大きな変化といえば、
アロマテラピーを始めたということだ。
香りに関心がある僕がそこに行き着くのは当然といえばそうなのだが、
逆にいえばなぜかこれまでアロマテラピーにいくことはなかった。
費用対効果を考えれば、
バラを育てるよりもバラのオイルを買った方が実は良かったのかもしれない、
なんて思った。
バラのエッセンシャルオイルは高価で、
5mlで18000円くらいするが、
バラにかけた費用はその倍以上は行く。
もちろん後悔は決してしていない。

そんな初冬の日々。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年11月 5日 (土)

ポートランドの夕暮れ

一人の男が夜道を歩いていた。彼はある女性との別れを迎えたばかりで、途方もない苦しみが全身を突き抜け、深い海の底のように静かな世界は圧倒的に他者となって遠ざかり、彼一人孤立しているように思われた。彼は自らの存在を消してしまいたいと思っている。彼女を失った今となっては、生きている価値の何一つとして見つけることができないのである。そんなとき、彼は突然尿意を覚えた。彼は思った。僕がどんなに思い詰めていたって身体は今まで通りに動き続けるんだ。そして彼は高らかに笑い出した。
「ポートランドの夕暮れ」より抜粋 ジェム・イロック作 池ケ谷裕太郎訳  ハンムラビ出版1999


この小品にはじめて触れたのは学生時代だった。
こころとからだ、この二つを分けて考えることが当然だろうとおもっていた当時の僕にはこの小品はある意味衝撃だった。
精神的にどれだけ追いつめられていても、実際に生きて行くのは物理的に存在する身体で、どれだけ自分が絶望を感じていていも実際に存在しているのは物理的な存在である身体そのものである、という単純な事実を若かりし僕には痛切に感じさせてくれたものだ。

あれから数年。
年を重ねる事によって、かどうかは自分でもよくわからないが、
見方が変わってきた。

変わったというよりも、深まったといった方がよいのかもしれない。

それは、「精神は身体そのものである」ということ。
いいかえれば、精神と身体は相互作用を及ぼすというよりも、
一方が他方を含んでいるという事。

なにか悩みがあれば、食欲がなくなり、
そのことによって気分もまた左右される。
事態がプラスにいこうがマイナスにいこうが、
それらは相互に相乗効果を生み出す、
ということを経験的に感じる。

どちらかが優位に立つ、という関係にはない。
あくまで相互に作用するのだ。

あるいはイロックはその事をまさに言いたかったのかもしれない。
当時の僕にはそこまで読み切れなかったのかもしれない。
いずれにせよ、
この小品は僕にとって常に人生の指標となる重要な作品なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月19日 (水)

記憶力

日頃子供と接していると、彼らから教わる事も少なくない。
子供、と言っても高校生なのだが。
高校生にもなると目指す試験に対する態度がもう僕と同じになるので、
自分と同じレベルで感じたりみたりした事を共有することができるようになる訳だ。

先日もひとつ教わった事があった。

記憶力が減退したな、とおもうことが多くなってきた。
きっとそれは年のせいなのだろう、と思ってきた。
年のせい、と言ってしまえばだいたいのことは片がつく。
仕方ない、の一言で終わる。
簡単な、しかし絶望的ないいわけだ 。
年を取ったら何もできない事になってしまう。

「数学を1週間勉強しなかったら、すっかり忘れて問題を解けなくなってしまいました。」
生徒の何気ないこの一言が大きく響く。
知識を忘れてしまうのはその知識に継続的に触れていないからなのだ。
もっとも記憶力が優れていると言われているはずの10代でさえ、誰しもそうなのだ。

法律の勉強は量が膨大なので、一つを終えて次にいくと、しばらく前の項目に触れないままの期間が発生する。
一週間触れないことがある、なんて事はざらだ。
忘れて行くのは当然で、また反復するしかない。
それを安易に年齢のせいなんかにしてはいけないのだ。
何度も何度も反復する事によって定着をはかる。
いくつになってもかわらない勉強の鉄則だ。

年齢を重ねるにつれて、時間の早さは増して行く、という詭弁がある。
これまで生きてきた時間を分母にして1秒を分子にすれば、
分母が大きければ大きいほど1秒の値は小さくなる、という訳だ。
うまいレトリックだな、と思う。
すくなくとも経験的な実感には合っている。

年齢とともに時間はあっと言う間に過ぎて行く。
忘れてしまった!と思っていた内容は、
実はもうだいぶ長い間触れていなかったことだった、なんてことはよくある。

こんな風に考えると、記憶力の減退は、物理的な能力というよりは、
感覚的な印象によるところが大きいと思う。

少なくとも僕はそのように考えている。
ていうかそうプラスに考えて行かないとやって行けない。

仕事が立て込んでしかも体調を崩して、
4日間勉強がストップしてしまった。
またやり直し。
淡々とやるしかないね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 6日 (木)

雑音

自分を包み込む音が不快であったり意味もなくただ流れている場合その音は雑音と呼ばれる。

雑音に囲まれている場合の対処方法としてはその雑音を断ち切るのが一番簡便かつ具体的な方法であるといえる。

ステレオのスイッチをぷつんと切るように。
窓を閉めて外の音を遮断するように。

けれどもそのような行為だけが必ずしも効果的とは限らない。

ただの逃避になる場合があるからだ。

雑音と思っているものも態度を変えればBGMになるか知れない。

物理的な行為によってではなく意志によってそれらを遮断する事ができるかもしれない。

ニーチェは言う。
「風に  遮られてからというもの、
どんな風をも追い風にして  私は帆を張る。」(悦ばしき知識)

心棒をピンとたてて、あらゆるところに落ちている意識を拾い集め、ただ思索の中に集中する。
雑音をビートにかえ、跳躍のリズムにする。
意志の力を信じる。





伊藤塾のテキストを読んだら、目から鱗だった。
毛嫌いせずもっと前からやっときゃよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 4日 (火)

秋の日々

火曜は休日。少しのんびりする。


ドゥフトヴォルケの最後の花がきれいに咲いている。
生育がきわめて旺盛で、まだ今のタームの花が咲き終わってなく追肥もやっていないのに、
既に新芽が吹きだしている。
P1010038


薔薇ゾウムシがいつもよって来るのは香りのせいだろうか。
ハダニもいつまでもついている。
駆除しないと、とおもいつつ今日に至ってしまった。
なんとかしないと。
でも気分的に、農薬を撒く感じじゃない。

急に枯れてしまった株も一つあった。
セプタードアイル。
「ミルラ香」という、イングリッシュローズ特有の独特の香りがするというふれこみの花で、
楽しみにしていただけに残念だ。
コガネムシが入っている形跡もなく、特に病気になっている形跡もなく、
原因は不明である。
イングリッシュローズは突然枯れる事がある、と言うそうだが、
本当にそうなってしまった。
でもまだ花をみてないのに・・・・
残念。

電車の中限定で、'GOD BLESS YOU, MR.ROSEWATER.'という本を読んでいる。
もちろん翻訳で。
面白いけど、なかなか終わらない。

民事訴訟法の勉強をしている。
手続きばかりで眠たくなる。
民訴ではなく眠訴とはよくいったものだ。

そんな秋の日々。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 1日 (土)

波。

このところ、択一の過去問に囚われている。
10月半ばから論文講座がはじまるから、それまでに一区切りつけたいのだが、
これがなかなか。
もっともっとだね。

いつもいつも思う事だが、
受験人生とは、評価との戦いである。
僕が他人の評価に敏感なだけかもしれないけれど、
基本的に否定的なまなざしを受けるように思う。
どれだけ勉強していても、社会的には0に等しい、
というまなざし。
結果が出ない限り、そのようなまなざしを受け続けるのだろう。
その結果は、良い結果であろうと悪い結果であろうとどちらでも同じだ。
成就しようが挫折しようが、なんらかの結果を出す、という事が評価には必要なようで、
結果が出ないうちはそのようなまなざしにさらされる。
だから、どれだけ勉強をしていても、否定的なまなざしに囲まれて生きていかなくてはならない。

そんな環境に身を置いて、精神的に一定した状態を維持することは、これは難しい。
少なくとも僕にはそうだ。
僕自身にはだいたい規則的な波があって、いいときはいいけど、悪いときはひたすら悪い、という両極端をゆらゆらと揺れ動いている。
そして今は悪いとき。
だからこうして文章にすることでなんとか這い上がろうとしているわけだ。

まなざしに負けているときは、ひたすら自己否定のスパイラルに陥る。
自分は何をやっているんだ、と常時否定し続けて、
自分が無価値な人間に思えてしまう。
そういうスパイラルにいると、外に出て行くことをためらうようになる。
実際に外出しなくなるともちろん仕事ができなくなるので、
本当に引きこもるなんて事はないが、
だいたいコミュニケーションをとらなくなる。
冷静に考えるとまったく論理的ではないのだが、
人前で笑顔を見せなくなる。
自分にはなにかを楽しむ資格がない、だって無価値だから。
そう結びついてしまう。

すべては僕の思い込みかもしれない。
否定的なまなざしなんてないのかもしれない。
何気ない一言は、本当に他意のない何気ないものなのかもしれない。
そう考えるのも一つの対策だ。
それはピエロになることに等しい。

立ち向かう、と言うのも一つの方法かもしれない。
「いまにみてろよ」とおもうこと。
否定に対する否定の反応。
いわゆる怨念感情だ。

まなざしを前提とした上で、避けずに突き進む事。
最近、スポーツの世界でZONEという言葉をよく聞く。
極限まで集中すると周りの風景が消えてしまうという現象の事をさすらしい。
それをめざすしかない。

ぐたぐた言わずにやりなさい。
一番シンプルなセリフ。
僕も生徒に多用した時期があった。
けれども、本当に否定的な時期には、心を整理しないと何にも頭に入ってこない、
ということがあるのだ。
自分がこういう経験を経て以来、生徒に対しても少し態度が変わったかもしれない。

と、特に起承転結もなくだらだら書こう、というのが今日のお題でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月20日 (火)

雑談

そろそろバラの消毒をしなければならないが、
今にも雨が降りそうな空の具合。
つぼみが色づきだしたので、大きくならないうちにやらないといけないのだが。
ちょっと困った。
昨日やっておけばよかったのだが、
日記に書いた通り、イライラする一日だったからめんどくさくてやめてしまった。
明日まで延期だ。

水やりをしていたら、ちょっと不安定な場所においてあった肥料がばさっとこぼれ落ちてしまった。
しかも室外機の裏側だからかたづけられない。。もったいないなあ。

・・・と、今日はとくに何にも話題のない日です。
勉強して、授業しにいって、かえって寝る、
という生活を続けると、話のネタがなくなる。
ちょうど帰宅した頃にやっているテレビ東京のビジネスニュースをみるくらい。

まあこういう生活をしているのだから、当たり前なのだし、それはそれでいいのだけれども、
ちょっと困るのが、授業でのいわゆる雑談のときだ。
導入の時やちょっと中休みのときに、息抜きの意味を込めて少し雑談を入れる事は
ある意味授業をする上で必要なことなのだが、
どうもここ最近その話題に困る。
「今日は表見代理の判例を読んでさあ」なんてことを言う訳にもいかない。

「えー、今日はですねー、えー、・・・まあ授業始めましょう・・・」
という具合につまらなくなる。

せめて電車の中だけでも小説でも読まないと。
というわけで細々と読み始めている。
とりあえずヴォネガットから。
読み終えたらレビューっぽく書いてみます。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年9月19日 (月)

up and down and down and up

今日は完全に日記です。

ちょっと情緒不安定な一日。
寝起きがよくなくて、いつまでたっても眠くて、
勉強に身が入らない。
ああっ!といらだちを声に出しながらなんとか机に向かうが、
頭が曇っているようで、どれだけ意識的に集中しようとしても、
なかなか効率が上がらない。
全然駄目だ、と声を出して嘆いて、
仕事に備える。
仕事に向かい、途中の電車で小説を読んですこしほっとする。

教室では、前週に、説教気味に真剣にはっぱをかけた子が、
すごーくやる気を出していた。
僕の思い入れがきっとこの子に伝わったんだな、とおもい少しうれしくなる。
そういうささやかな幸せが、この仕事の醍醐味なのだろう。

生徒の意識があがったせいで、授業は割とスムーズに流れる。
自分の発話する事が、他人に何らかの影響を与えるなんてちょっとうれしい。
おかげで、すこし元気になる。

帰りの電車の中ではMY GARDENという雑誌を読んで、
バラが欲しくなる。

そんで帰って軽くご飯食べて、今これを書いている。

そんな一日でした。あがって下がって、up and down.
すべて内的な事なので、一人で勝手にくたくたです。

話はまたまたそれるのですが、
日本橋三越チェルシーからバラリストが送られてきて、
秋からギヨーのジェネロサシリーズが正規に取り扱い開始が判明!!!!

うーん、、、、、、、ほ   し    い 。。。。。。。。。。
花が好みなんだよねぇ。ラフランスの花容をもっと懐古的にした感じの花が多い。
交配親に使っていたりするのかな。
イングリッシュローズよりも好みなんだよなあ。

でもこれからは自己投資しなければならないものがあるし、
本ももっと買わないとならないし、
ベランダがもういっぱいだし、
それでも、
うーーーーーーーーーー。。ん

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月17日 (土)

トレーラー

またブログをほったらかしにしてしまった。

バラも少しほったらかし気味に育てていたら、

また来てしまった。ハダニ。

夏に発生したものとはつき方がちょっと違うから、
別の種類なのだろう。
割と気づくのが早かったので、
「発生初期に効果的」とかいてある、
いいかえれば効き目が弱めの薬剤を散布した。

これですこし様子を見る。


さて、

九月に入って、仕事も落ち着いたので、
勉強も本格的に始動。
アホだなあといつもイライラしつつも、
なんとかやっている。


ところで、

机に向かう自分のイメージを、
なんとなく自動車に照らし合わせるとどうなるかな、
なんて妄想をよくする。

F1ではない。
18000回転まで回しきって疾走する、なんて研ぎすまされたイメージは
僕の脳みそには当てはまらない。
カミソリみたいにすぱっと切れる頭のいい人間も確かにいるだろう。
憧れるが、自分はきっと違う。

かといってファミリーカーでもない。
そこそこの性能でそこそこの価格で、
走る曲がる止まるという基本性能をしっかり保持して、
無理をしない、
そんなもんではないだろう。
なりたくもない。

きっとトレーラーだ。
軽やかに疾走することはできないけど、
ドドドドドドと轟音をたてておもい荷物を一生懸命引っ張る。
大きくて鈍臭くて排ガスまき散らして迷惑たくさんかけるけど、
着実に歩みを前にだす。
問題が解けなくてイライラしながら、
顔をしかめながら、
時にぶつぶつひとり文句をいいながら机にむかう自分は、
ディーゼルの大型車のようだ、
なんて一人思っている。

ほんとはアメ車がいいな。
60年代の5000cc以上の公害車。
古くて速くはないけれど、
加速力は抜群。
ボボボボボボボボボと、
いかにも石油燃やしてます!って音を立てて、
トルクフルに突進する。
3ヶ月後にアメ車になれるようになろう。

そして、
目指すはフェラーリだ。
フラットに高回転まで吹け上がり、
甲高いサウンドをならしながら疾走する。
2年以内にフェラーリになろう。

13日に誕生日を迎え、
またひとつ年をとった。
もうおっさんになろうという人間が何をほざくのだ、
と誰かに言われるまでもなく
自己批判してみたが、
でもそういう妄想でもしなきゃ、
モチヴェーションの維持は難しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月11日 (日)

知るということ。

今度はドゥフトボルケが咲いてくれた。
オレンジがかったピンク。
花色がいいですね。
もちろん香りも!
いまベランダで咲いている花はたった2輪なのだが、
たった2輪でも外に出るとバラの香りを感じることができる。

季節は確実に変化している。
植物と接していると、その変化を刻々と受け取ることができる。
一日一日を意識して過ごせるようになった気がする。

まったく話題は変わるが、
あらゆる知識は問題解決の為に存在するのでは、と最近とみに思う。
勉強していると痛烈に感じてしまうのだが、
問題を解かないと自分が学んでいることは絶対に定着しない。
本を一通り読んで、ふむふむ、と思っただけではなんの意味もない。
一言一句もれなく読み込んだつもりでも、やっぱり見逃してしまう部分があって、
問題をとくと、そのことがはっきりする。
そこでもう一度本に戻って読み直すと、
一つ一つの文言が違った前とは様相で僕の前に現れる。
勉強はそういう作業の繰り返しなのだ。

よく、知識の習得をinput,問題を解けるようになることをoutputなどという。
inputをしてからoutputの練習をする、ではなく、
outputをすることで、inputできるのだ、という当たり前の事実を
最近実感した。

という訳で、過去問をとく毎日だ。

法律だって、語学だって、なんだってそうだと思う。
いや、もっと広く、
コミュニケーションにおける諸々の情報だって、
本質的には問題解決を前提するのではないか、
と言ったら言い過ぎだろうか。
「人が何かを知ろうとする場合、必ず問題が発生したときの解決手段として知ろうとしているのだ」と。

みなさんはどう思います?
DSCN0262

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 5日 (月)

雨が空から降れば・・

「記録的豪雨」の真っ直中に帰宅時間がかぶってしまい、
ずぶぬれになってしまった。
傘なんてまるで役に立たず、
ぬれなかったのは髪の毛くらいで、
鞄のなかの本から携帯から防水機能のない腕時計から、
まさに何から何までびっしょりと水をかぶってしまった。

「降れば土砂降り」と何度もつぶやきながら帰ってきた。

あたりがうっすらと白んで見えるくらいたくさんたくさん雨が降っていて、
雨の音がすべてを包み込んでいた。

単一の音が一定に鳴り続けると、人間の聴覚はそれを遮断するようだ。
生理学なんてまるでわからないから、これは僕の経験の印象なのだが、
激しい雨音にさらされると、一瞬、まるで何も聞こえていないような錯覚に陥る。
無音室に入ったときのような、音が遮断された世界。
静かなところにいる時とは違う不思議な感覚。

開放感がまるでなくなるのだ。
そこが単に静かであるということと、遮断されるということの違いだ。

例えば静かな田舎道を歩いているときでも、
遠くで木々の揺れる音や、鳥の鳴き声がかすかに聞こえたりする。
それが僕に空間の広がりを感じさせてくれる。
空間の広がりを感じることそれ自体を、きっと開放感というのだろう。

遮断される、とはそれとは全く逆である。
周囲の世界から切り離されて、
僕はひとり孤立する。

孤立したときに意識が向かう先はもちろん、
自分自身である。

僕は、このような「自分自身に意識を向けざるを得ないような状況、感覚」が好きなのだ。
同じようなことを前にも何度か書いた。

そのような作用がもっとも強く出すのが、自分を周囲から遮断することだ、とはよくいわれることだ。
究極的にはSMプレイになるらしい。
肉体を緊縛され自由を失うと、「自分が生きている」という感覚を味わうことができるそうだ。
自由を失うことで、強制的に自由を失った自分の存在に意識を集中せざるを得ないのだろう。

まあそこまで自分の意識を集中させる必要性を感じるほど
僕の意識は拡散していないから、
とりあえずSMはやっていない。

変な方向に話がいってしまった・・・

雨がそんなことを感じさせてくれた。

それにしても昨日の雨はすごかったなあ。
昨日ばらの消毒したばかりなのに・・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月30日 (火)

迷い

前にも書いたが、僕の過ごす日々は迷いと前進の日々である。
そして、このところは「迷い」の日々を過ごしている。
ということは、今日の内容は迷いが反映されることになる。
平たくいうと、今日の文章は愚痴だ。
そんなことしか今はかけない。
じゃあ書くな、と必然的に自問もするが、正負あわせて僕の精神なのだから、
いずれの側面も書くべき内容なのだ、と言い聞かせる。

「両立」という言葉が今の僕のキーワードである。

どうして要領よくできないのだろう、と落ち込み気味だ。
一方の割合を増やすと、とたんに他方の調子が悪くなる。
「両立」がうまくできていない。
一方と他方とは、もちろん勉強と仕事のことだ。

最近、勉強の量を増やしている。
すると、とたんに仕事がうまく回らなくなる。
精神的に苦痛になってくることもあるし、実際に細かいミスをしてしまうようにもなる。
うーん、僕ってあほなのかなあ、とうなだれてしまう。

塾のバイトと違って、予備校の講師は結構大変な仕事だ。

実際の拘束時間は授業時間プラス数時間だからそれほど長くはないのだが、
授業外の準備にものすごく時間がかかる。
毎回、答えと解説を逐一作りあげていかなければならない。
教授用資料などというプリントはあるにはあるが、
きわめてお粗末なもので、全部の解答がのっていないばかりか、
間違っているときさえある。
だから準備段階で、ひとつひとつ精査をしなければならなく、
それに時間を取られてしまう訳だ。
「最初の頃は毎日のように徹夜して予習したなあ」とセリフを
複数のベテラン講師からきいた。

そして、講師間の競争もなかなか厳しい。
インターネットの普及以来、生徒の集まり方が一局集中に変化したらしい。
ネットを介して口コミ情報が網羅的に伝播するようになると、
あたかもそれが世論のように多数派の意見を構成し始めて、
結果的に、情報の多いベテラン講師に生徒が集中する。
そして、これまで以上に、新人講師は辛酸をなめることになる。
僕も採用になったときに、「最初の1、2年はつらいよ」といわれた。

そんな世界だ。

そんな状況下で両立を目指すのは一苦労で、今日みたいに、
落ち込んでしまうことがある、という訳だ。

徹底的に弱音をはいてしまった。。。

それでもなお!!!

前進しなければならない!

僕はチョロQみたいだ。
後退して、ゼンマイを巻いて、
そして急速前進!
の繰り返し。
それもまたよし。
僕が望んで選んだ生き方だ。

本質的に、といってもいいほど僕は他人の悪口や愚痴を聞かされるのが苦手だ。
それはきっと、僕自身が強烈な自己否定を繰り返しているからなのだろう。
否定するのは自分だけで十分だ、という訳。

さあ、がんばろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年8月23日 (火)

ねむい

かなり久しぶりの更新になってしまった。

しばし内省の時期というか、何かを書き表す気にならない期間が続いて今日に至った。
拡散したなにものかを中心に取り戻す時期。
「よし」と独り言を言って前進する。
そんな数週間だった。


バラたちは相変わらず元気だ。
一時ひどかったハダニもぱたりと消え失せ、
新芽がぐんぐんのびて葉を取り戻している。

そろそろ夏剪定の時期だ。
秋に一斉に咲かせるため、一度きり戻して同時に新たな芽を吹かせる、という訳だそうである。
バラ本に従って、これまでつぼみを摘み続けてきた。
花を咲かせないことで、株に体力をつけさせる、という訳だそうである。

入手してからまだ一度も花をみていない株がいくつもある。
秋になればようやく花を解禁しよう。
秋が楽しみになってきた。


今週は特に忙しい。
午前中ある場所で授業をやってから移動し、別の場所で夜までまた授業。
まだ大丈夫だが、もうすぐ声がかれて、のどがちりちりと痛み始めるだろう。
すり切れたような、熱を持つ感じの痛みだ。
それもまたよし。
どうせ忙しいんだからと、こんなときにこそムキになって勉強を空き時間に差し込む。
サディスティックな快感。

「よし」と机上でもう一度言って次の行動に移ろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年7月31日 (日)

somewhere over the rainbow

ここではないどこかへ行きたい。

僕の頭のなかにありつづける思いだ。
「ここ」とは具体的な場所をさす場合もあるし、
もっと抽象的に今の状況全般をさす場合もある。
いずれの場合も、「現状につねに満足していない」という点が共通項であろう。

今の生活状況を考えれば、そんなふうに物事を考えてしまうのは当然かもしれない。
僕は受験生なのだ。
いつも「このままではいけない」と思う。その思いが僕を前進させ、時には停滞させる。
迷いと決意の繰り返しだ。

けれども、そういう思いはもっと基本的な僕の性質であるようにも思えてならない。

「うち」と言う言葉がすごく嫌いである。
「うちの会社は」とか「うちの大学は」とか「うちらのグループは」なんていうときの「うち」。
僕はこの言葉を絶対に使わない。耳にするのも嫌なくらいだ。
それだけ意識的にこの言葉をさけているから、
たまにあえて使ってみることもあるが、発言したとたんにものすごく違和感を感じる。
使い慣れない専門用語を意味もよくわからずに知ったかぶりをして使ったときの違和感に似ている。
「うち」を使わないことが一つのポリシーになっている。

ポリシーになるくらい嫌悪感に自覚的なのだから、もちろんなぜ嫌なのかをぐだぐだと考えることもある。
(僕は考え事がすきなのだ。)
おそらく、僕は帰属意識を嫌っているのだろう。
「うち」とはいうまでもなく、内と外の「内」のことである。
内と外は対概念、一方が他方を前提として成り立っている概念であるから、
「うち」と言う言葉には、外を前提として、それを排除した集団、そしてさらにはその集団に発言者が帰属している、という意識が反映されている。
「自分はこの集団の一部であり、うちにいない人たちは異質な存在なんだよ。」というメッセージが込められているる。
僕はこのような帰属意識を持つことを極端に嫌悪しているのだ。

こういう、何かの一部に自分が取り込まれることをいやがる性質は、僕にとっていい面も悪い面もある。
そしてどちらかと言うと悪い面のほうが前に出ているようである。

それは孤独と疎外感だ。
たえず一抹の寂しさを感じながら日々を生きている。
その寂しさは決して癒えることがないのだろう。
ここではないどこか、とはきっとユートピアなのだ。

こんなことを考えたのは、
Israel Kamakawiwo'oleの'Over the Rainbow'を最近よく聴いているからだ。
イズラエル・カマカヴィオレと読むそうです。
ERと言うドラマ(何度も言いますが大好きなドラマ)で、グリーンという割とメインのキャラクターが
癌におかされ、最期のときを生まれ育ったハワイで向かえる、という回があって、(シーズン8です。)
最もお気に入りの回の一つなのだが、
そのなかで流れていた曲。
映像がとてもきれいで、あの情景を思い出すとともに、
somewhere over the rainbowという言葉が、
なんとも僕に語りかけてきます。

自分のことを書いてみる、というのが今日のテーマだったが、
体験記を書かず純粋に意識と向き合うって難しい。
さっぱりまとまらない。
だれかまとめてください。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2005年7月26日 (火)

夜遊び

夏になり忙しくなる前に連休!。というわけで、夜遊びをしてきた。友人と二人で六本木のクラブで朝まで!!!

夜遊びなんて学生時代以来である。しかも学生時代といっても20かそれ以下かくらいの時。前世紀のころだ。あの頃は「渋谷系」なんていう言葉があった。ディスコからクラブへ移行した時代だった。IDチャックなんかないおおらかな、というかいい加減な時代で、高校生の僕も、結構行ってたと思う。そこで流れる音楽は結構趣味に合っていたりして、楽しいひとときを過ごした思い出がある。そういう場に流れる音楽の主流がヒップホップやハウスに移るにつれて、僕は行くのをやめてしまった。

今回のクラブはあのとき以来だ。

中は、いうまでもなくものすごーい大音量である。
建物が揺れるほどの迫力で強烈にビートが襲いかかってくる。
音の振動が心臓に響くほどの、強烈なビートだ。
そんな環境に身を置くと、僕は音楽を耳ではなく、体で感じることを強制される。
周りには音楽しか聞こえない。
すべての論理的思考が麻痺し、僕のからだは音楽と連動するようになり、
今時分が酔っているのかさえ分からなくなる。
自分の身体が音と一体化していくのだ。
久しぶりだったので、はじめは羞恥心もあったが、とうとうこらえきれなくなって踊りだす。
音楽に身を任せるように体を動かす。自我が消えていくのを感じる。意識—身体と言う統一体が解体され、僕が感じるのは、ただただ音楽に包まれる、細胞の集合体という感覚のみであった。
僕は音楽に溶けこんでいた。

ちょっと村上龍チックかも。

何かに陶酔するって、すばらしいことだ。それは嫌なことを忘れたり、憂さ晴らしができるからではなく、思考を停止させることで自分のからだが「今、ここに、在る」ことを確認できるからである。
悩みがあったり、ストレスがたまったりすると、どうしても頭でっかちに考え込んでしまいがちだ。頭でっかちになると、思考がふらふらと一人歩きして、足下を見失うことになる。自分を見失う、と言ってもよいかもしれない。

そんな時に、何かに心底酔ってみる。思考が消え去れば、のこるのは、地に足をつけた自分だけだ。
地に足をつけた自分をしっかりと確認すること、それは頭でっかちになって見失いかけた自分を取り戻すことだと僕は思っている。
逆に言えば、嫌なことを忘れる、憂さ晴らしをする、という行為の構造はこういうことかもしれない。
ただ、それはつらい現実に目を背けて何かに逃げ込んでしまうようなただの逃避ではなく、
あくまでも、「自分が在る」という事実と向き合う、という文脈でのみ言えることだと思う。

また行きたいなあ。

↓古代ギリシアのワインと陶酔の神、デュオニュソス。陶酔はニーチェによって加えられたんだったっけ?
右手に酒杯、左手にぶどうを持っています。友人がギリシアに行ったときにお土産にくれました。
机の上で僕を見守ってくれています。

DSCN0249

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月24日 (日)

start at

昨日、今日と、二つぎくりとすることがあった。

一つは言うまでもなく昨日の地震である。その瞬間は、部屋で締め切り間近の教材原稿作成をこりこりやっていたのだが、あまりの揺れに部屋を飛び出してしまった。机の後ろには背の高い本棚が二つあって、その上に天井近くまで本が積み上げられている。地震が起きたとたん、その二つの本棚が「みし、みし」とイヤーな音を立てて、大きく、円を描くように揺れだしたのだ!あわてて部屋の外に出て様子を見る。本棚を壁に向けて傾ける程度の、一応の地震対策はしていたためか、崩れ落ちることはなかった。天井から落ちてきた本の角で頭をぶつけたらほんとに痛そうだ。。。

もう一つはベランダでのこと。鉢の置き場所をいれかえようとおもって、鉢を持ち上げたときのことだ。目と鼻の先の枝をふと見ると、チュウレンバチが卵を産みつけている!!!思わず鉢を落としそうになった!だってほんとに目と鼻の先にとまっていたんですよ!「おおぅ」と声を上げてしまった。その後もちろん捕殺。

今週の授業で、start at という熟語がテキストにあって、「ーに目が飛び出るくらいおどろく」という類いの意味なのだが、「あまりに驚いて思わず体がびくっと動いてしまう、そんな素早い感じがよくでてる熟語だよねー」なんてことを教えていた。僕のことだ。

ぎくりと言えば、ほかの動物と同じように、人間もまた、興奮すると瞬間的に体臭がかわり(中村祥司「香りの世界を探る」p189)、パフューマー(香水の調香師)のような嗅覚の優れた人間は、その変化を認識できるそうである。あの瞬間、僕の体臭もかわったのだろうか?瞬間的に嗅いどきゃよかった。

写真は今日の話題と関係ないですが、夜にとってみたスイートキャリオットです。夜バラ。
焦点がずれてしまいましたが、闇夜に浮かび上がる感がでてて、まあまあお気に入り。
コンパクトデジカメってファインダーでピント調整ができないから、ピントがあっているか分かんないです。。
DSCN0241

| | コメント (2) | トラックバック (0)