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2006年10月

2006年10月29日 (日)

シンデレラと秋の憂鬱。

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シンデレラ(min.)。
接写しているから大きさはよくわからないかもそれないが、
親指の爪ほどの小さな花を咲かせるミニバラ。
かすかな香りを漂わせる。
この花が咲くと「ああ、咲いた」とささやき声で独り言をいう。
そのくらいささやかな、可憐な花を咲かせるバラ。
小さな鉢に小さくこんもりと旺盛に育つ。

今はやることがないので、
語学の勉強。
洋書を読み始める。
ちょうど今日用があって神保町に行ったので、
ずーーーーっと探していたペーパーバックを古本で安価で入手。
ヤフオク相場の半額!
ペーパーバックって装丁があんなに粗雑で安手なのに、
国内で買うととても高い。
だからなるだけ古本を探すのだが、洋書の古本なんてどこにも売っていない。
それがある神保町古書店街はやはり世界一だけのことはある。

本ていいですね。

そんな秋の日々。

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2006年10月27日 (金)

elle

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秋のバラはなかなか咲かない。

つぼみが開き始めてから3日目。果実のような香りを漂わせながらゆっくりと花弁を開いてゆく。

バラという花にまつわる僕たちの比喩的想像力が、この緩慢な変容をエロティックにとらえさせる。

「エル」というバラ。何色とも言いがたい微妙なグラデーションと、その香りの良さに引かれて入手した。好きなバラベスト3に入るお気に入り。

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2006年10月26日 (木)

Genuine

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マツリカのつぼみ。

マツリカはジャスミンティの原料となる、いわば「本物のジャスミン」。

まさにジャスミンの香りがする。つぼみの白さがとてもよい。

濁りがない澄み切った白色。純白とはこの事だ。

年中ぽちぽちと咲き続けて、ベランダに香りを漂わせる。

なんだか最近香りに鈍感になってきた気がする。香りというか感覚が全般的に鈍化している。

たばこのやめ時かもしれない。

とおもったのはおそらく1000回目だ。

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2006年10月16日 (月)

シリウス。

学生講師諸君に混じってある人の送別会に参加した。

その学生諸君はほぼ全員が東大生で、
しかも理系の子ばかり。
ものすごく独特の空気を醸し出していた。
それはやはり彼らが東大生なのだからだろう。

普通同僚と飲みにいくと、
授業の話(つまり仕事の話)を延々と語る人間(SくんKくん)がいたり、
女の子の話しかしない人間(Tくん=僕)がいたり、
競馬の話に花を咲かせる人間(Oさんとか)がいたり、
えせ文学論を語る人間(Mくん)がいたり、
とまあ具体的な顔を思い浮かべるとこんな感じの人間が集まってわいわいやるものだが、
彼らは少し違う。

物理の理論について花を咲かせる。

酔っても論理的思考力は落ちないようだ。
何を言っているか全くわからなかったが、
彼らが法科大学院適性試験を受けたら何点取るんだろう、
なんてことをぼけーっと考えた。

とは言ってもやはり学生は学生らしく、
倒れる子が2人出現する。
ネゲロしてトイレに運んで、
なんだか微笑ましかった。
今では僕が介抱する側なのだ。
一番楽しんでいたのは室長で、
「のどにゆびいれろー!!!気合い入れろー!!立てー!!」と
なんだかよくわからない体育会系ぶりを発揮していた。

「最後に一言お願いします」と幹事が送別されたHさんにスピーチを促すと、これが百言スピーチに。

スピーチ終了後トイレに行列ができたのにはかなりウケた。

つぶれた2人は、
1人は家が近くだったのでタクシーで送り、
1人は近くに住む子の家に泊めることにして、
その子を家まで運ぶのを僕ともう一人の子が手伝った。

一緒に運んだその子もまた東大生なのだが、
ちょっと小池撤平風のオシャレなかわいらしい感じの男の子。

女の子が放っておかなそうなイケメン。でも彼女はいないらしい。

運んだ僕らもかなり酔っていたので帰りに道に迷う。
そこで彼が一言。
「シリウスがあそこに光っているから方角は間違っていません。」
シリウスっては星のなまえ。
聞けば天文部に所属しているとか。
やっぱり東大生は恐るべし。

シリウスに助けられた僕らは無事駅へと戻る事ができ、
終電はとっくに終わっていたので、
僕はタクシーで帰り、
シリウス君は三次会に向かったのでした。

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2006年10月15日 (日)

最近のバラ。

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ドフトヴォルケ。
今はもうない。去年の写真。
春にシーズンを迎えて以来、我が家のベランダは様変わりした。

いろんなことが忙しくて、消毒をすっかりさぼって水やりだけしていたら、いろんな種類のバラが病気で次々と枯れてしまった。虫にやられてしまったものもある。

なかでも残念なのは、お気に入りの二つのバラが枯れてしまったことである。

その一つがこの「ドフトヴォルケ」。香りがよく花もゴージャスで、アプリコットがかった赤い花が咲くと、しばしベランダに出て眺めたものだ。

きちんとケアをしないとバラは枯れるって本当なのです。。

ちなみにもう一つのお気に入りは「エヴリン」。香りが一番良かった。

これもいなくなってしまいました。

さっきバラのページを検索していたら、またバラ熱が少し上がってきてしまいました。エヴリンとドフトヴォルケ、買い直そうかなぁ。

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2006年10月13日 (金)

「これくれるよ。」

あるエライ人と面談をしていたときのこと。

僕の経歴を眺めながら、
「何故先生には訛りがないのですか?」と聞かれた。
僕の出身は東北で、しかもある意味一番方言が抜けにくい地域である。
「ある意味一番抜けにくい」とは、
語彙自体の方言はそれほどない変わりにイントネーションが独特(抑揚がまったくなく語尾に向かって音が上がる)であるため、
そこの出身の人間は上京して何年たってもいつまでも訛りが抜けないということだ。
具体的に言うと、福島県中部地域。

もちろんこれは訛りを除去しようとしている人を対象とした場合の話で、
地方のアイデンティティを全面に押し出して、あえて方言を抜かない人間は除外して考える。

何故ないのか、と聞かれても「ないからないのだ」とトートロジーしか浮かばない。
「東京に憧れていたからです(ほほえみ)」と答えたら、
「いや、まじめな話で」
と興味津々のご様子である。
よくよく伺うと、福島出身で訛りのない人間とあったのは僕が初めてだそうである。
いやいや、訛りのない福島出身だっているよ、
とおもいつつも、
せっかくなので理由を考えてみる。
「耳がいいからだとおもいます」というのが僕の行き着いた答え。

残念ながら絶対音感はないものの、
楽器やっていたからおそらく普通の人よりは耳がいいはず。
イントネーションをコントロールできるから僕には訛りがないんじゃないだろうか、という理屈だ。

その方はそれで納得してくださった。

でもよくよく考えたら、それじゃ音痴の人間は方言自体すら形成されなくなってしまうということになる。
でも、もしかしたら言語修得期の方言の形成過程は音感とはまったく異なった次元において進行するのかもしれない。
そう考えたら上記「音感方言除去説」は説得力を持つかもしれない。
もちろん僕にはそんなことはわからない。

なんでかなー。

ちなみに、イントネーションが消え去っても無意識レベルに定着した方言はやはりあるもので、
自分が東京に住み始めたときに最初に受けたカルチャーショックは、
「くれる」という言葉だった。

福島の人間は、何かを人にあげるとき、
「これくれるよ」と言うのだ。
もちろん東京では
「これあげるよ」である。
「くれる」とは本来もらう側が言うべき表現だから、
他者に視点が移動してしまっている訳で、
考えてみれば不思議な表現だ。

最初にこの言葉を聞いた東京人は、
きょとんとしていた。

と、仕事と全く関係のない話ばかりをした面談だったのでした。

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2006年10月11日 (水)

涙の進路相談会

授業料の高さで有名な某なんとか塾と掛け持ちをしているリッチな子が生徒の中にいるのだが、
その子から聞いた話だと、
そこでは生徒を集めて進路相談会みたいなものを開催していて、
参加した生徒の中には涙を流す子がちらほらいると言う。
「宗教がかっていた」と
この話をしてくれた子は言っていたが、
そういうその子の表情も少し紅潮していた。

涙を流す進路相談会ってどんなだ?

宗教でも営業でも、
誰かを虜にしてしまう話術のノウハウがあれば教えてほしいものだ。

保護者会で保護者を泣かせてみたい。

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2006年10月 8日 (日)

ロココ。

レビュー。
「ボッケリーニ 弦楽五重奏曲集作品11」

図書館でたまたま見つけて聴いてみた。
(amazonにはなかったので近い作品を貼りました)
極めて軽やか。
というよりも軽薄。
浮かれた時代の浮かれた雰囲気がよく伝わる。
ここまで徹底的に軽やかなタイプの音楽は初めて聴いた。

とっさに浮かんだのが、
フラゴナールの「ぶらんこ」という絵画。
ロココ様式の有名な絵画である。
考えてみればボッケリーニはロココ絵画が流行した時代の作曲家だから、
僕の感覚はあながち間違ってはいないかもしれない。

表層的な快楽を追い求めると、
その追求の果てに独特な気怠さを感じることは無いだろうか。
僕はあったな。

そういうたぐいの気怠さをロココ絵画を見ていると感じる。
ボッケリーニも然り。

この弦楽五重奏曲ホ長調作品11の5の3楽章が、
有名な「ボッケリーニのメヌエット」。

ホ長調!
軽薄なわけだ。

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2006年10月 7日 (土)

午睡

午睡というには時間が早いが、
ぽかぽかとした秋の太陽のもとでしばしまどろむ。

幸福に包まれた夢を見た。
ところがその幸福は不幸を導くように巧妙に仕組まれている。
目が覚めると涙を流していた、というのはもちろん嘘だが、
牧歌的世界、
すべてが純化された世界への憧憬に包まれた。
あいまいな秋の晴天が、
覚醒しきれていない僕のあいまいな意識にとけ込み、
すとん、と軽い音をたてて落ちた。

次のステップに歩みを進めようと、
机上の整理をした。
山積みされた本を本棚に戻し、
雑多に広がったさまざまな書類を処分した。
もはや不要となった24冊の本はこれまでの努力の証だ。



少しの間は、
小説や音楽や哲学や、
一つの時代の終焉とともに置去りにしてしまったものたちと戯れようと思う。

残り少ない秋なのだから。

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